賽の河原で貝殻を積む

水産技術者として思うこと等々

短期記憶

父が高齢者運転者に該当する年齢になり、来週、認知機能検査を受けることになった。

 

何か月か前に、ネットで調べた際、どのような問題が出題されるか、高齢運転者支援サイトに全く出ていなかったのだが、ようやくPDFにて公開されたので、早速、印刷して父に渡した。

私も内容を読んだのだが、時計盤を書いて、時刻を表示するのは全く心配なく書けると思う。

しかし、検査項目の中で、16枚の絵を見せられ、説明を受けた後、何が書かれていたのか、思い出して、名称を記載するという検査は私も全く自信がない。

 

以前、某国立大学の付属中学校受験の際に、似たような試験があり、試験対策のため、母とともに同じような問題を解いたが、ほとんど覚えられなかった。

おそらく当時、ADHD(注意欠陥・多動性障害)だったのだと思う。

未だに短期記憶については、非常に疎い傾向がある。

持っていくつもりの物を忘れて、慌てて現地で買うことが多々あるし、言われていたことを忘れていることも多い。

高校生の頃まで、忘れ物をして、母親に持ってきてもらうことがしょっちゅうあった。

マークシート方式のテストだと、必ずと言っていいほど、読み間違いやマークの間違いをしている。

そのため、メモを必ず取るようにしたり、後の自分に気づかせるように印を付けたり、と対策を行っており、ようやく人並みになっている。

 

このような私だが、長期記憶については、2歳以降の記憶が残っており、一度興味があって覚えたことは忘れない。

正確に思い出し、それを話したり、書くことができる。

水産関係で覚えた記憶を忘れないのは、興味があるからであり、批判を書いたりしているが、自分の好きな分野を忘れることはできない。

 

絵を見て、何が書かれていたのか思い出す、という短期記憶を鍛えるための方法を一つだけ知っている。

例えば、リンゴの絵があれば、リンゴを食べて食中毒を起こすことを想像する。

ドライバーの絵があれば、ドライバーで頭を刺されることを想像する。

覚える行為が、いやいや覚えるものである場合、興味があるから覚えるという長期記憶とは異なるため、なかなか覚えられない。

そのため、絵に関連付けた行為、特に自分が被害を受けていることを想像して覚えていくと、全てのものを覚えることができる。

これは、言われた事をそのまま覚える時でも応用が可能である。

言われた言葉を文節で切って、この文節に自分が被害を受けるよう、関連付けてしまえば良い。

昔、ラジオでこのような放送があり、実際にやってみたところ、確実に覚えることができた。

 

ただ、この覚え方には一つ欠点がある。

このように覚えた記憶は、なかなか忘れることができないのだ。

どうでもいい記憶が残ってしまい、消えなくなる現象が起こる。

これを忘れる方法は、ただ一つ。

目をつぶって、頭を真っ白にした状態で、絵の記憶が雪で埋まっていって見えなくなることを想像すること。

そんな馬鹿な、という先入観があると、絵の記憶が残ったまま消えなくなる。

父は短期記憶が優れているため、恐らくこの技を使わなくとも大丈夫だと思う。

 

もし、これから言われたことをそのまま覚えなければならない、という場面に遭遇したら、この方法は役に立つだろう。

しかし、一生消えなくなる記憶というものを背負うリスクがある。

果たして、これをblogを読んで試す人がいるのかどうか分からないが、試す前に、一生消えない記憶になってもいいか、よくよく考えた方が良いだろう。

1984~従順で素直な人々~

先日、雑誌のネット版を読んでいたら、現在の若者の社会に対する考え方が書かれていた。

この考え方が、現在の若者全員に浸透していると私は思わない。

ただ、今まで様々な考え方をする若者を見てきた中で、ジョージ・オーウェルの小説「1984」に出てくる主人公以外の人々に近い考え方で怖くなった。

 

まず、自分が貧乏である理由は、努力をしていないから、という考えである。

通常ならば、貧乏から抜け出すため、金を稼ぐために何かしら働こうと考えるが、その考えを持っていない。

 

そして、これは自己責任であるため、他人や政治が悪い訳ではなく自分が悪いから、という考えである。

これも政府が最低保証賃金を1時間1500円以上にする、内部留保の多い企業は、その内部留保について追徴課税を行うなどの対策を講じれば、賃金の上昇は見込めるはずだ。

 

最後に、現在の格差社会は当たり前の事だ、という考えである。

このような考え方が浸透してくれば、使用者(雇用者)や管理職の立場の人々は非常に楽だ。

上司から「君の給与が上がらないのは、君の能力がないからだ。自己責任だから仕方ないと思いなさい。」と言えば、若者は納得するという社会だ。

このような社会が正しいとするならば、私はこの国をすぐに出ていく。

日本を捨てて、私の能力を必要とする国に国籍を移す。

それが、日本を経済的に攻撃する立場になったとしても未練はない。

上記のような考え方が正当だと思う国は、私にとって母国ではないからだ。

 

若者が、思考停止状態で生き続けている社会ほど、恐ろしいものはない。

働き方の多様化という嘘から始まった派遣社員制度や、会社のグローバル化を目指すという、現在の世界情勢に遅れた考え方から、賃金に格差を付けているのが現在の日本である。

 

経済的な情勢を見ると、欧米、欧州は保護主義的な段階に進んでいる。

つまり、他国よりも自国や自国民の利益を尊重する、という考え方だ。

保護主義が全て正しいとは思わないが、経済的な利益が上向かないならば、まず自国民の賃金を上げるのが先であり、グローバル化は後である。

 

若者が政府や会社に言われるがまま、自分が貧困にあえぐのは自己責任だ、と考え、思考を停止させてしまう国に未来はない。

それこそ、ビッグブラザーの下で、2+2は5であると言われれば、そのとおり2+2は5であることに疑問を持たない世界になるだろう。

これは明らかにおかしい。

 

このブログは、某資格の予備校で使用しているTwitterのアカウントとも連携しており、私は、講師が間違っていれば必ず間違いだと指摘するし、現在の講義で改善するべき点はきちんと書いている。

以前は、私のように指摘をする人が多かったのだが、最近は全く指摘がなくなっている、という話を聞いた。

 

相手を否定するのではなく、間違いを間違いであるということに何の問題があるのだろう。

2+2は5であるという間違いを否定し、指摘できない人間が蔓延る社会ならば、間違いだらけの社会になることが何故分からないのか。

 

私の言いたいことが全く分からない人は、ジョージ・オーウェルの小説「1984」を読んだ方が良いだろう。

そして、そのような社会に憧れるなら、今すぐ北朝鮮にでも行ってくれ。

ビッグブラザーに似た人物がいるし、自分の意見を言うことなく、存分に労働者として生きて、役に立たなくなれば、ぼろ雑巾のように捨てられる社会だ。

 

そのような社会を私は決して許さない。

 

https://www.youtube.com/watch?v=VtvjbmoDx-I

↑上記Youtubeの動画は、パソコンがIBM互換機独占の頃のアメリカで、Apple Computer社がMacintoshを全世界に販売するときに使われたCMである。

そのApple Computer社が、GAFAの一つに入り、ビッグブラザー化しているのは、皮肉なものである。

この広い海の片隅で

水産業というと、魚を捕ることや魚を養殖することが専らと思う方が多いが、実は多岐に亘る。

農林水産業、と第一次産業を一括りに考える方が多いが、農林業水産業は全く別物と考えても良い。

役所自体がその違いを分かっていないから質が悪い。

捕ってきた魚を加工する水産加工業水産業の中に入り、釣り客を乗せて魚を釣らせる遊漁船業も水産業の中に入る。

林業は、農作物を育てて出荷すればおしまいであり、あとは物流会社に任せるしかない。

 

水産業は、捕ってきた魚を干物や缶詰などに加工する第二次産業、遊漁船業のように一般客が、レジャーとして釣りを楽しむ第三次産業を含む広い概念である。

行政が一次産業から三次産業までを足したものを、第6次産業と新たに名称を付け、水産業でも導入すべき、と推進しても、水産業に携わっている人間は、昔からやっており、むしろ農林業を営む者が、水産業を参考した方が良いのである。

そして、水産業の一番難しい点は、各漁港、漁場において全く生息する異なることである。

地域ごとに全く魚種・漁法が異なるため、ある地域で水産資源をA方法で管理した結果、資源が増大し、継続的に漁業ができるようになったとしても、別の地域では、同じ方法で管理することができない。

地域ごとに、地域住民の気質、漁場の特性、魚種・漁法を勘案しながら、水産資源の管理を考えなければならない。

つまり、省庁が号令をかけて、ある管理手法を強引に当てはめようとしても、全くそれが通用しないのが水産業の難しい点でもある。

 

つい最近、釣り具会社に勤める友人から、私が数年間、貝の研究・技術普及に携わっていた漁港で釣り大会を行った、という話を聞いた。

その漁港は、2011年の東日本大震災で多大な被害を受けた場所であり、津波で住宅が流されていく姿を涙を流しながら、テレビで観た。

私は、震災後、別の仕事の携わったため、その地域に全く縁がなくなってしまい、訪問することもなくなってしまった。

その漁港で、数年前から釣り大会を行うことが恒例行事になったらしい。

私は遊漁の知識がないため知らないが、毎年、遊漁業界では有名なプロの釣り師やタレントが大会に参加しており、その釣り師の使っている漁具のチャリティー販売も行っていたそうだ。

大会の運営は、その地域で遊漁船業を営む漁師さんが行っていたそうで、素人が行う素朴ながらも、アットホームな大会だったらしい。

しかし、友人から、今年は他府県で大会を運営している半分遊漁・半分イベンターの組織に運営を任せたところ、酷い大会になったと聞いた。

有名なプロの釣り師の紹介や、漁具のチャリティー販売は無し。

そして、一番ひどいのは、この大会に参加の申し込みを、ネットかFAXのみに制限したことである。

このブログを読んでいる方は、そんなに酷いことか?と思うかもしれないが、釣り客全てがネットやFAXを使える訳ではない。

昔からこの地での釣りが好きで、遊漁船に乗って釣りを楽しむ高齢の方もいる。

そのような人たちを排除する形で大会を行ったらしい。

当日は大雨であり、大時化(海が荒れているという意)だったのだが、大会の運営者が漁場のことを全く知らないため、決行され、危険な状況での大会になったのだそうだ。

大会が行われた漁場は、ヒラメやマダイが生息している砂浜と磯が入り組んだ場所であり、水難事故も多い場所である。

その運営者が、普段どのような漁場で遊漁船業を営んでいるか調べたら、海底が砂浜であり、シロギスやアジなどを釣らせる程度のものであった。

 

この運営者(女性)は、関東の釣り大会の運営を仕切りたがっているらしい。

東北の災害復興のため、と称して釣り大会の運営を行っているそうだが、今回、釣り大会を行った場所は、まさに東日本大震災の被害地である。

そのような事情も全く知らない門外漢がしゃしゃり出てくること自体、大間違いである。

 

海は広大であり、全世界に繋がっているが、その地域の地先毎に、事情や状況は全く異なる。

海の知識もなく、ただ雑誌やマスコミに目立ちたいだけの運営者は、とっとと水産業界から退場するべきである。

時々、このような人が現れては消えていくのを見ているが、おそらくこの運営者もあと数年で表舞台から消えるだろう。

ウナギの代用魚

今年のウナギの稚魚であるシラスウナギの漁獲量は、過去最低だったそうだ。

 

で、完全養殖ウナギの養殖技術を持っている(独法)の養殖研が、シラスウナギを供給できるように研究を行っている。しかし、卵からシラスウナギまで育てるのにコストがまだ非常にかかっている。

因みにシラスウナギから、市場に出回るサイズのウナギまで養殖で育てる場合、歩留まりは0.9を超える。

つまり、ほとんど成魚サイズまで生育して市場に販売することができる。

 

数年前、近畿大学がウナギの代用品として、ナマズを養殖し、かば焼きにして販売したが、養殖の仕方が悪かったのか、選んだナマズの種類が悪かったのか、不評に終わった。

一度でも消費者が不味いと思うと、二度と買わなくなるのが、食品業界の厳しいところである。

ただ、ナマズの養殖を始めた近大の准教授の話が、「淡水魚という淡水魚をいろいろ食べてみて、ナマズに行きついた」と述べていたが、これは大間違いである。

ナマズでも、特に美味しいと言われているのが、琵琶湖原産のイワトコナマズである。

肉質も良く、淡水魚特有の臭みもない。

また、イワトコナマズの養殖方法も既に確立している。

これは、仮定であるが、近大はナマズなら何でもよいだろう、と二ホンナマズ(マナマズ)を養殖した可能性が高い。

また、淡水魚を食用にする際に一番重要な泥抜きの作業を怠ったのが原因と考えられる。

こうして、近大がナマズの販売を失敗したせいで、ナマズの食用への道が閉ざされたと言っても過言ではない。

ナマズは、ウナギと異なり、川や湖、沼で産卵するため、ウナギのように海に下って産卵するという面倒なことは行わない。

5月の産卵期、サケの脳下垂体ホルモンをメスに打てば、翌日に産卵するし、媒精も人為的にオスから絞ればできる。

ナマズの稚魚は、ミジンコの湧いた養殖池に入れれば、あっという間に成長する。

ここまで養殖技術が確立しているものを何故、消費者が美味しいと思える状態にまで仕立てられなかったのだろう。

技術が未熟なのか、ナマズの種類の選択を間違えたのか、はっきりしなければ、次に進まないのに、一度失敗しただけで研究を止めてしまったようだ。

何ともお粗末な話である。

別の大学や研究機関で、イワトコナマズの養殖を始めてみればいいのに、というのが私見である。

 

イワトコナマズ以外にウナギの代用魚として考えられるのは、アナゴぐらいだろう。

ただ、アナゴの研究もノレソレ(アナゴの稚魚 ウナギのレプトケファルスと同じ形態)を食用サイズのアナゴまで養殖で育てる、という研究は行われていない。

毎年、高知県東京湾ノレソレが漁獲できるのに、そこから先に成長させるという研究は皆無だ。

何故ならば、そのような事をしなくても、毎年アナゴが漁獲できるから、というのが理由である。

そして、アナゴの生態(産卵、ふ化から成魚まで)は未だに謎のままである。

水産の研究は、このように無理をしなくても自然に漁獲できる、という理由から、養殖技術を確立しようという試みを行わない種が多い。

養殖技術が今も残っているのは、ヒラメ、マダイ、トラフグ、アワビ、サケ、アユぐらいだろうか。

いわゆる高級魚と呼ばれるものしか完全養殖をする研究が行われていない。

 

このままでは、ニホンウナギレッドリストの1A(絶滅危惧種)になり、ウナギの漁獲が出来ない、当然ウナギの稚魚であるシラスウナギの漁獲なぞもってのほか、という事態も起こるだろう。

今後のウナギ養殖は、比較的資源が豊富と言われているオオウナギに切り替えようという動きも未だに行われていないし、オオウナギの生態の研究も行われていない。

代用魚の研究を行うか、コストがかからないシラスウナギを生育させる技術を作るか、もしくは毎回おなじみの自然任せに頼るか。

 

私は、今の日本の研究機関の状況を見ている限り、自然任せに頼る、を選択するのだろうなぁと落胆しつつ思っている。

捕鯨再開となったが・・・。

日本がIWO(国際捕鯨委員会)から脱退する、というニュースを聞いたとき、我が耳を疑った。

日本ほど、条約批准後、条約を忠実に守っている優等生の国家は珍しいからだ。

頭に浮かんだのは、何故か国際連盟脱退の頃の軍事国家だった日本のことである。

それ程、私には衝撃的な報道だった。

日本人と鯨の文化は、非常に長い。

紀元前の頃から、遺跡の中に鯨の骨が発掘されているし、文献としては、奈良時代捕鯨を行っていた記録も残っている。

17~19世紀に燃料として鯨油が必要である、という理由だけで鯨を乱獲していた欧米、欧州諸国(鯨油だけ採り、個体は棄てられていた)とは異なり、鯨の皮、骨、肉、髭まで全て日本では利活用されてきた。

私が小学生の頃、当たり前のように鯨の竜田揚げが給食に出てきていたのが、ある年を境に、全く食卓にも上がらなくなったことを覚えている。

高校生の頃、人工的に小型の鯨を養殖できないものかと考えたぐらいだ。

 

捕鯨国、反捕鯨を訴える人々の言い分は、捕鯨をしなくても、他の動物タンパク質はいくらでも市場に存在している、何故わざわざ捕鯨を行う必要があるのか。これに尽きると思う。鯨を神と崇めている宗教の存在も知っている。

 

一方で捕鯨国の言い分は、捕鯨の文化が失われることは、その国の歴史的財産を奪うことになる、捕鯨し、鯨を利活用する文化を失うことを世界に強要されることはおかしい、という言い分である。

 

どちらも正しい言い分であるし、これを感情論で議論しても何の解決にもならない。

そのために調査捕鯨を行い、世界の鯨資源の把握に努めてきたのだが、この調査捕鯨自体を停止することになり、日本が遂にIWOから脱退し、商業捕鯨を再開することになったのである。

私が水産学を学んでいたころは、既に捕鯨自体、行われていなかったため、捕鯨に関する知識をほとんど学ぶことができなかった。イルカ突きん棒漁という漁法がある、ということを学んだだけだ。

ただ、全国を移り住んできたため、和歌山や千葉で地元の住民たちを対象として、食文化を残すために、捕鯨が細々を行われていることは知っている。

 

日本の捕鯨文化を残すか、国際調和の観点から長年培ってきた文化を棄てるか、と選択を迫られた場合、私は文化を残す方を選択するだろう。

紀元前の頃から鯨と日本人の文化は、日本に深く根付いている。

乱獲を行わず、適正に資源を管理しながら、捕鯨を行うのであれば、という条件を付けるが。

 

しかし、心配なことはあまりにも長い期間、日本で鯨を食べる文化が失われてしまったことだ。鯨肉は、高タンパク質で低カロリーであり、豚肉、牛肉に比べると機能性食品と言ってもよい。

だが、今の日本人が牛肉や豚肉、鶏肉を差し置いて、鯨肉を食べるか、と考えると、おそらく鯨肉を選択することはないだろう。

調理方法も鯨食文化が廃れてしまい、分からないし、海外から輸入した牛肉や豚肉の方が圧倒的に安い。鯨肉がスーパーで販売されていた頃、輸入牛肉や豚肉、鶏肉は日本で販売されていなかった。

 

そのため庶民は、国産の牛や豚の代わりに、鯨肉を食べていたのである。

いきなりIWCから脱退し、商業捕鯨を再開するのではなく、水産庁は、鯨文化の再開を広く日本中に伝えることが先ではなかったのか?

今の水産庁長官は、課長時代から知っている方であるが、ここぞというときに煙に巻いて逃げる人物として有名だった。

こんな状況で捕鯨を再開して大丈夫なのだろうか、という不安が残る出来事だった。

川と海を行き来するウナギ

前回のブログで、ウナギの事を書いたが、ウナギの生態について全く記載するのを忘れていた。

ウナギの生態は、通常の淡水魚、海産魚と異なり、非常に変わっている。

ウナギは、グアム島マリアナ諸島の西側沖の水深2000mのマリアナ海嶺スルガ海山で産卵していることを元東大海洋研究所の塚本教授が明らかにした。

資源量から考えると、他の水域でも産卵しているかもしれないが、現在のところ不明である。

親ウナギは、川で成長した後、海へ移動して産卵する。

 

産卵後の親ウナギが元々生息していた川に戻るのかどうかは、まだ不明である。

その後、ウナギの受精卵は海でふ化した後、プレレプトケファルス→レプトケファルスという形態に変化する。

笹の葉っぱのような形と言えば分かりやすい。

 

ウナギがレプトケファルスの段階の際、まだ遊泳力がない。

科学者が仮定しているのが、その葉っぱのような形態を利用して、北赤道海流の流れに乗り、フィリピンの方まで流れていき、その後、黒潮の流れに乗りつつ、シラスウナギへと形態が変化していく、というものだ。

 

シラスウナギになったウナギは遊泳力があるため、黒潮の流れに乗りつつ、中国や台湾、日本の川に遡上してくるというのが、現在分かっているウナギの生態である。

 

つまり、海で生まれる→形を変えつつ川に遡上→川で成長→親になったら海に遡行してで産卵

というサイクルを繰り返しているのである。

この複雑な生態が、ウナギの完全養殖を難しいものにさせている。

親ウナギにまで生育させ、産卵させることは、性ホルモンを注射すれば陸上でも可能である。

しかし、問題はその後、深海で生息しているレプトケファルスの水圧を人工的に作らなければならない。

また、レプトケファルスが何を食べて成長していくのか、というのも長年不明であった。

 

現在は、サメの乾燥卵の粉末を与えることで生育することが分かっているが、果たしてその他の餌を捕食しているかどうかも不明である。

 

不明な点だらけではないか、と思うかもしれないが、ここまで判明するのに数十年かかっている。

 

それ故に、シラスウナギの採り過ぎを規制する必要があるし、親ウナギの採捕を規制する、という資源管理が必要なのである。

 

 

 

 

 

ウナギの科学 (シリーズ“水産の科学”)

ウナギの科学 (シリーズ“水産の科学”)

 

 

土用の丑の日

今年の土用の丑の日は、7月27日だそうだ。

 

この日は日本人が半狂乱的に、ウナギを食べなければならない、食べなければ死んでしまう、ぐらいの勢いでウナギを食べる。

この土用の丑の日にウナギを食べるという風習?ができたのは、江戸時代の中期、夏にウナギが全く売れないと嘆いている鰻屋に、平賀源内が土用の丑の日にウナギを食べることで精が付く、夏バテ防止になる、と宣伝してみては、というのが始まり。

言わば、バレンタインデーにチョコを送るのと全く同じようなもので、夏にウナギを食べることに何かメリットがあるのか、といえば、ビタミンAを多く摂取できる、ということぐらいである。

そもそもウナギの旬は冬であり、夏のウナギは脂肪分が少なくて、美味しくない。

 

だが、一旦出来上がってしまったビジネスモデルを変えることはできない。

養鰻業者(ウナギの養殖業者)は、12月に海から川に遡上してくる10㎝に満たないシラスウナギ養殖場に池入れして、土用の丑の日までにウナギとして出荷できるサイズまで育て上げる、ということが何年も続いていた。

養殖場で育てるのだから、脂肪分が高いウナギを出荷することになる。

ウナギの旬の時期を度外視して、無理くり土用の丑にウナギを育て上げ、売るのが、養殖業者の腕の見せ所となった。

 

しかし、肝心のシラスウナギが、昨年から今年にかけて不漁である。

この不漁状態は、もう数年以上続いている。

12月に池入れできるシラスウナギは、ほんの僅かである。

従って、昨年度の12月以降に池入れしたウナギを大きく育てて出荷するのが、今のスタイルになっている。

 

シラスウナギは、1㎏あたり100万~200万円が相場である。

これぐらい希少価値が高くなると、当然反社会的組織が関わってくる。

取り締まりを行うといっても、地元の警察は密漁自体が刑罰になることすら知らない、下手をすれば、警官がシラスウナギを密漁していた事例もあった。

 

シラスウナギが不漁になった原因は、①黒潮が大蛇行しているからシラスウナギが目的の川に遡上できない、②川に河口堰ができたから親ウナギが産卵場である海に行くことができない、と理由を探せば幾らでも出てくる。

しかし、根本的な原因は、ウナギという水産資源を国や地方自治体が管理してこなかったことである。

何故ならば、シラスウナギは、毎年川に遡上してくるのが当たり前の出来事だったからである。当たり前の出来事が当たり前でなくなることを予測できなかった官公庁の研究機関の罪は大きい。

 

独立行政法人の水産研究機構がようやくウナギの完全養殖を成功させたが、ウナギの受精卵からシラスウナギまで育てるコストが非常にかかる。

逆にコストが安くなると、シラスウナギ漁を生業としている漁師は困る。

また、反社会的組織が闇で売買しているシラスウナギの価値も当然下がってしまう。

従って、国がコストの安いシラスウナギを作ろうものなら、たちまち反社会的組織は手を変え品を変え、圧力をかけてくる。

国と反社会的組織のずぶずぶの関係も、ウナギの研究が一向に進まない阻害要因となっている。

 

いっそ、土用の丑の日にウナギを食べる風習自体を止めてしまえば良い、というのが私の意見である。

ウナギを食べなくても、現在は他の食べ物で幾らでも夏バテ対策は可能である。

むしろ、ウナギの脂肪に含まれる動物性ビタミンAの過剰摂取は、頭痛、筋肉痛、脱毛、皮膚の表面がはがれるといった過剰症を引き起こす。

 

と書いても、多分今年も7月27日はウナギの話題で持ち切りとなり、ウナギの資源管理が遠のくのだろう、と半分諦めの境地である。